神刀流居合
 日比野雷風は明治35年に世に出した著書「天下無敵剣舞術」のなかで、「剣法、柔道、居合の三法を合一し茲に剣舞術を工夫した。」と
神刀流創流の弁を語っている。居合は当時の神刀館では剣舞の要素にすぎなかったが、以後約二十年をかけて剣武術体系が構築されるなかで大正10年までに神刀流居合型十五本が制定された。その後さらに奥居合10本が考案制定されたという。
 神刀流居合の基本には、初伝、中伝に置いた大森流正座11本、英信流立膝10本、奥立膝居合10本、奥立居合10本以上41本があるが、これは柳澤義正が神刀館の師範代時代に大江正路より伝授を受けたものだ。また同形居合立ち技31本があるが、これは自らが工夫考案したものであるからとして神刀英信流と称した。戦後、神武会ではこれらの全てをあわせ総目録九十八本とし伝えている。
別に、英信流としての早抜きが座位で伝わっている。また、立ち技で燕返しからはじまる速刀は、番外とし早抜きを元に工夫されたものである。

土佐居合
 幕末まで、土佐藩の御留め流で土佐英信流と言われ、門外不出といわれていた長谷川英信流居合は、明治に入り廃藩置県、廃刀令と世
の中の変わりゆく中で、大江正路師の努力により普及していった。当時より礼法を基礎に静的である正座の居合、大森流を初伝に置いていた。
長谷川英信流は立膝の居合で、無雙直傳やわらぎの武術体系の一項目で、甲冑組討における刀法の位置づけであり、より実践的で動的である。
大江正路師は、この大森流と、英信流をあわせて土佐居合として伝えた。

大森流 
  大森流居合は元禄時代に大森(六郎左衛門)正光によって創意工夫のすえあみ出されたものとされている。大森正光は土佐の人で
長谷川英信に神伝重信流居合を学んだが故あって土佐藩主家を破門になった。後に新陰流(神影流)剣術を修行した正光はこの新陰流
「鞘の内」五本を取り入れ、さらに時の小笠原流礼法を加えて品位と格式ある居合形をあみ出した。これが大森流居合である。

英信流
 林六太夫守政は大森正光に就いてこの技を習得する一方、荒井勢哲清信より無双直伝長谷川英信流居合の伝授を受けた。英信流と
ともにこの大森流居合を土佐に伝えられ、後に土佐藩武術無雙直傳流和のうちの居合術として伝承されてきた。廃藩されるまで門外
不出であったが明治時代になって大江正路が土佐居合の初伝として長谷川英信流とセットで広めたので今日の普及に至っている。




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